先回り
5年生の頃、通っていた塾で、2年生の子が、「先生。。。」っと小さい声で何かを言った。隣にいた自分にも聞こえなかった。
もう一度、言った。 「先生、出来ました」っと、かすかに聞こえた。
何度か、先生。。。っと言った後、先生まで声が届かず、諦めてしまいそうになった気がしたので、自分が代わりに「先生、◯◯が出来たって、言っています!」と、大きな声で先生に言った。
その途端・・・
先生は、鬼の顔で僕を叱りつけた。 「なんで、中村君が代わりに言うんだ!◯◯が自分で言おうとしてるのに!余計な事はせんでいい!!!◯◯、もう一度自分の言葉でいいなさい!」
その先生は、怖い先生だった。
自分は頭が???になった。 なんで俺が怒られるねん!ええことしてるのに!!!
こどもなので(今もだけどw)、そんな事はすぐに忘れてしまった。 しかし、その先生は矛盾している人だと、心の中に残ったままになっていた。
思春期にも、その事はそのままになっていた気がする。
疑問のまま、、、。
最近、やっと、先生の気持ちが解るようになった気がする。 その子は、自分の声で先生に伝えたかった。 今、思うと先生は、その子の顔をチラチラ見ていた。 そして、その子がよっし!っと、勇気を出そうとした瞬間、僕が先生っと言ってしまった気がする。
ファミサポ研修の時、あるお母さんが、泣きながら自分の子どもの事を語った。
その子が通うサッカー教室の先生に、「◯◯さん、◯◯君の事を少し離れて見てくれないですか?◯◯君は、才能がありながら、独創性、創造性にかけます。それは、はっきり言って、お母さんの影響です!」と言われたと。そのお母さんは、その時ハッっとしたと言った。私は、いつも息子の側で、いつも、いつも、いつも。。。だったんだと気づいた。その子が、他の子と馴染めないのも、学校に行きづらいのも。。。全部、全部、全部。。。だったんでは無いのか。
それから、必死で。他の人から見たらたいした事では無いように思われるかもしれないけど、私にとっては、本当に、本当に血のにじむ想いで、先回りしてしまうのを耐えた。心配してしまうのを耐え、その子の事、そしてその先生を信じた。血のにじむ想いで。いっぱい、陰で泣いたと。
1年後、その子はレギュラーになって、トップ下を任された。
それは、他の人から見た時、あるいは、大人から見た時、あるいは健常者から見た時、、、たいした事では無いように見えるかもしれない。
今、介護の世界でも、子育ての世界でも、あるいは教育の世界でも、、、。 直接、安易に助けない事が重要視されつつある。 そんな、楽な事に逃げない覚悟が問われている。
誤ったリスク管理。 前提が問われている時代。
今まで生きてきて、染み付いてしまった概念、無意識で行われる善意的なもの。。。
質を高める時代。
それは、自分に向き合う事。
負けない事。投げ出さない事。逃げ出さない事。信じ抜く事。 から、始まるのかもしれない。