いじめ①
その子は、がさつだった。がはははっと大きな声で笑った。
その子は、感情豊かだった。よく笑い、よく泣き、よく怒った。
その子は、空気が読めなかった。突然大声を出し、みんなをびっくりさせた。
その子は、思った事をすぐに口にした。よくみんなを怒らせた。
その子は、いじめられていた。すぐに泣いて「お母さんが」と言った。
その子の母親は、すぐに学校に乗り込んだ。モンスターペアレントと周りからは言われていた。
その4年生の女の子は、よくuni:neuに遊びに来ていた。いじめに見て見ぬふりという手段で加担していた同じ学年の女の子達とよく一緒になった。学校と同じように、同じ学年の女の子達は見えづらい方法で、その子をいじめていた。無視したり、陰で「uni:neuには来るな」とその子に言ったり、その子が座った椅子には座りたくないと言った。。。 学校でも同じ事をしているのだろう。大人の目が届かない分、もっと陰湿かもしれないと思った。学校では「良い子」と言われるいわゆる「普通」の子達だった。
なぜ、いじめるのかとその子達に聞いてみた。空気が読めないと言う。母親にいちいちちくると言う。気持ち悪いと言う。女子なのに暴力的だと言う。すぐにお母さんが言う。謝らない。全て自分が正しいと言う。男子達がいじめているからと言う。普通ではないと言う。いろいろな理由があった。
たまちゃんは、陰でいじめる人は嫌いだと言った。卑怯者は嫌いだと言った。大人は卑怯だとある子が言った。じゃあ、私も卑怯なん?とたまちゃんは聞いた。たまちゃんは違うとその子は言った。
その日から、すぐに「お母さんが、、、お母さんが、、、」と言うのをいじめられている4年生の子にuni:neuでは禁止すると伝えた。いろいろ話をした。誰の課題なのかが重要だった。
その4年生のお母さんは、面倒見の良い明るい人だった。uni:neuのイベントを手伝ってくれたり、どこかに出かける時には見送りに必ず来るそんな人だった。ゆとりの無い近くの家の子ども達を、良く一緒に遊園地などに連れていったりしていた。一人っ子のその4年生の女の子に対し、誰よりも愛情を注いでいた。
少しづつ、お母さんという言葉は、その子から消えていった。同級生達も、腹が立つ事は、その場で言うようになっていった。言い合いも出来るようになった。一方的ではなくなった。なぜ相手が腹を立てているのか、なぜ相手が泣いてしまうのか、少しづつお互いに解るようになっていったようだった。一緒に、子どものお店を企画し実行したり、いろいろな協働が増えていった。同級生達は、仕方なくといった空気も持っていたが、事が始まるといつの間にかそんな事はどうでも良くなっているのがわかった。 正直言うと、恐らく過半数以上いる学校や家では良い子の方が僕は心配だった。 学校と家の私は本当の私じゃないねん。我慢して、自分を殺して生きているその子達が正常に思春期を向かえ、吐き出しが出来る事を願った。 「こどもが こどもの力で 自分に向き合う」uni:neuが一番大事にしている事。
5年生に上がる頃には、いじめはおさまりかけていた。主となりその子をいじめていた男子も手を出さなくなっていると複数の子が言っていた。主となりその子をいじめていた男子には、残念ながら結局最後まで会えなかった。その子は4年生の頃、学校の池の鯉を全部殺したと噂のあった子だった。躾に厳しい家庭に育ったと言う。この子と対話出来なかった事が結局一番の心残りだった。
ある保護者が、自分の子どもの勉強に影響が出るからと、いじめに関係する子どものクラスを別々にするようにと学校に要求した。学校側は、2クラスから3クラスにクラスを増やし対応した。最悪だった。主となりその子をいじめていた男子が課題に向き合う権利を奪ってしまうやり方だった。 隠され、縛られ、囲い込まれ、コントロールされる。。。
そんな環境から、物事が改善する事があるのだろうか?
エンパワメントが発揮される事があるのだろうか? みんなが気分良く過ごせる環境がそこから生まれるのだろうか?
結局は、大人の問題。
そして、最終的には、その子自身に帰ってくる課題。
大人の課題。子どもの課題。組織の課題。社会の課題。 課題は繋がっていく。それは、宇宙にも繋がっていくのだろうか? 何の為の課題なのか。それは、一人一人に問いかけられる。
ちょうどその頃、今まで表面化していなかった新たないじめが明らかになった。