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明日香村に住もうと大阪を出た。まだ、その目標は叶っていない。明日香村で家を探すと、平田という地名がまず出てくる。明日香村のある人が言った「あそこは違うから」。飛鳥駅から近いその土地は、アパートが立ち並び独居老人が多く暮す場所。「あそこは違う」という言葉が嫌いな僕は、その土地に興味を持った。
壺阪山の駅前に偶然家を見つけた。障がいの現場を知りたいという思いと、家から近いという利便性と日曜日休みであるという都合で今の職場に就職した。そこで、最初に担当したのは平田に住むおばあちゃんだった。そのおばあちゃんと帰り散歩しながら、近所のおじいちゃん、おばあちゃんと話しをするのが、僕にとっても、そのおばあちゃんにとっても楽しみだった。2人で勝手に挨拶運動をした。明日香村で生まれ育ったそのおばあちゃんには、1年前引っ越して来た平田にも、たくさんの知り合いがいる事がわかった。いろんな思い出がおばあちゃんの中で蘇った。災害の際助け合える人が、近所に出来て僕は嬉しかった。
同じ平田には、みんなの学校上映会を明日香村で行うきっかけになった少女が暮らしていた。みんなの学校上映会は、その子に見て欲しくて企画したものでもあった。残念ながら上映会の時には、その子は遠くの施設に保護されてしまっていた。事例から考えると恐らく最低後1、2年は親元に戻る事はないだろう。
その子と実際に会ったのは、去年の12月飛鳥駅だった。あすかさんぽ後、予約していた駅前のカレー屋さんでパーティーを行うため、駅前を通るとベンチに毛布に包まっている人がいた。おばあちゃんかと思った。声をかけるために近寄るとその子だった。パーティーを一緒に楽しんだ帰り、カレー屋さんにその子の事をお願いした。「見かけたら声をかけてあげて下さい」と。すぐに意味を理解したカレー屋さんは、その子に優しく名前を尋ねてくれた。
数週間後、この「あすかみんなのおうち」を借りる決意をし、その地の氏神さんに挨拶に行った。お正月だった。又、駅前でパンクした自転車に乗る彼女と遭遇した。すぐに帰るという条件で一緒に初詣に行った。
残念ながら、彼女と一緒にみんなの学校を見る事は出来なかったが、彼女から多くの事を学校や行政は学んだと信じたい。
今日、明日香村社協で平田のおばあちゃんの事で話し合いの場が持たれた。スーツを着た社協の人、そして役場の人の中、おばあちゃんは意味も分からず連れてこられ椅子に座らされた。重々しい空気の中、おばあちゃんは緊張した面持ちだった。一人づつ自己紹介をする事になった。おばあちゃんから自己紹介をする事になった。おばあちゃんは立ち上がり名前を言ったそして、深々と、本当に深々とお辞儀をした。その姿を見て、僕は本当に立派だと感動した。後の話しは、どうでも良くなるぐらい、彼女のお辞儀は立派だった。元社会福祉協議会の人間として、明日香村社協に対し言いたい事はいろいろあった。それは、社会的に許される事ではなかった。しかし、お願いしますと深々と礼をする、そのおばあちゃんを見て、僕は日本の法すらどうでも良く思えた。残念ながら、組織の都合によりもう帰り一緒に散歩には行けそうにない。一つお役目が終わったのだなと僕は思った。
僕は変わっているから、福祉や教育ほど傲慢で罪深きものはないと思っている。そこに一生携わると決めた以上、自分はきっと地獄に落ちるだろうと思っている。そして、このおばあちゃんも、毛布をかぶっていた少女も、今の職場の利用者さんも、それから西成で関わっていた子ども達も、それからあすかさんぽなどで関わってきた子ども達も、万が一の時、みんな面倒をみる覚悟をしている。地獄に落ちようが苦労しようが、どっちでも良いと思っている。きっと、僕の出番はないのだろう。やっぱり、それも、どっちでも良い事で。
今日、職場で男の子が「ブルーハワイ」と画用紙に書いた。
昨日、平田のおばあちゃんが職員が草集め作業をしていると手伝いたいねんとやってきた。
文句ばかり言って周りを困らすおっちゃんが、いつもコンビニで寄付をしている事を知った。
自分の中の正義からはみ出せないお寺に預けられ育ったおっちゃんの絵の線は純粋だった。
入ったばかりでなかなか馴染めない男の子が、「今日はいい天気やな。ポカポカや」と笑って僕に言った。